復元した唐代皇宮・大明宮(3D画像)
日本の東洋史学者、内藤湖南先生(1866-1934)は、日本文化と中国文化は同じ黄河流域に起源を持つひとつの古い文化であり、日本文化はこの古代文化に刺激されて派生し、成長し始めたサブシステムであると考えていました。
内藤先生がおっしゃる通り、日本文化は中国と離れられない関係を持っています。中でも唐代から受けた刺激と影響がいちばん大きいのではないかと思われます。
奈良にある東大寺・大仏殿
奈良時代から現代に残る建物の建築様式をみると、当時の中国・唐代の建築を模して建てられたとみることができます。例えば、上の唐代の皇宮・大明宮の画像と奈良・東大寺の屋根の形を見比べると、建築様式が良く似ていることが分かります。
じつは建築のほかにも、日本文化の中には遥かな唐代の文化がたくさん残っています。
これから簡単にご紹介したいのは、今も特別な時の服装として輝きを放つ日本女性の伝統的な装い、「着物」についてです。
『大仏開眼』(だいぶつかいげん)が、NHK大阪放送局が制作した「古代史ドラマスペシャル」として2010年にNHKで放送されました。これは奈良時代に唐から日本に戻ってきた一人の遣唐使の活躍を描いたもので、吉岡秀隆が主演を務めた日本のスペシャルドラマですが、登場人物の服装がすべて唐代当時の服装であり、今中国で作られる歴史ドラマや映画の中にもなかなか見ることのできない、完璧な“復元”でした。
では、いつから日本人は唐代の衣服を着るようになったのでしょうか?
唐代女性の衣服(左)と 奈良時代女性の装い(右)
歴史をひも解いてみると、養老2年(718年)に元正天皇によって改撰せられた「衣服令制」によって、当時の日本人の服装は隋唐時代の服装を真似たものになりました。
養老の衣服令による命婦礼服(左)と光明皇后復元像(右)
唐代の女性に流行した服装
また、当時日本の貴族層の女性たちの間では、唐で流行っている服装を真似て装うのが一つの流行であったことが、上の写真を比べてみれば分かると思います。
唐代女性像(左)と 日本・江戸時代の女性像(右)
室町時代になると、日本女性の服装に元々の唐からの服装に基づきながらも日本独自の個性が創り出されてきました。現代の着物の原型はそこから生まれたと言われています。以後、服装は日本独自の着物へと形を変えていきましたが、髪型や髪飾りやメイクは、唐代から受け継いだ様式が今日まで残っているようです。例えば現代の芸妓のメイクや髪飾り(下の写真)には、唐代女性像(左上の画像)に描かれている唐代からの遺風が鮮明に残っていると見られます。
そして、日本のデパートや観光地で今売っている日本の簪(かんざし)は、唐代のモノに日本らしい独自の風合いを加えて作られたモノと見ることができます。このような日本らしい独特の風合いを加えた唐風の飾り物は、最近伝統文化を復興しようと主張している中国の若者たちの間で、お土産として大いにヒットするでしょう。